修経会の代表幹事を務められた中野伸彦さんがこの度、終身会員に移行されました。 今回、手記を寄せられましたので、ホームページに掲載させていただきます

修経会回想「私の履歴書」

 

令和元年5月の誕生日で、私は78歳を迎え、これを契機に修経会卒業の潮時と考え、ペンを取りました、思えば、加藤省吾さんをはじめ、二名の林さん、川口喬さん、三代さん等、歴代の代表幹事の面々が走馬灯のように浮かびます。私は下久保さん、近藤道明さんの前の代表幹事を務めていました。それでも、何はともあれ、まず、御礼と感謝を申し上げたいのは、創設時代より現在まで、活達な司会と献身的なご尽力を戴いている藤田和彦さんです。修経会の全員が慕っていることでしょう。歴史と伝統は脈々と引き継がれ大学の発展に併せるがごとく、昨今の修経会の活動には過去に見られなかった目を見張るような素晴らしい実績を展開しています。

 

これからもより経済問題の議論を深め、会員増強を進め、足が地についたご活躍と会のご隆盛を衷心より祈念いたします。

 

さて、大学創設の頃の景色を少し振り返ってみましょう。私が入学したのは、前身の創設、広島商科大学時代、昭和35年1期生の時です。南観音の飛行場の側で、雨の日はぬかるみを除けて登校していました。およそ60年近く逆のぼります。当時はパイオニアスピリットを旗印に勉学にも、クラブ活動にも学生、学園、先生方一丸となって、一生懸命取り組みました。体育会系のクラブ活動は華々しい活躍でした。私は文科系のESSでしたが、存在感を強調するため新設校の挨拶とクラブ活動の中四国一体化を目指して、英語弁論大会を本学で主催する案内を四国、岡山、地元広島の大学を訪問し、出演弁士を募りました。おかげさまで、私の記憶では私の卒業後の長く続いたイベントでした。其の後は、ESS部員による英語劇も盛んに行われました。現在の平和大通り、東急オアシスのあるビルの以前は広島アメリカ文化センターが在り、英会話練習には好都合でした。在学中、南カリフォルニア大学の学生が大挙来広。拙宅にも一人、ホームステイをし、交流を深めました。私の母親がベッドの長さが足りないので箱を足の部分へ補強して2日間をしのぎました。また、ESS以外で立ち上げていた経営研究会では、戦後復興のシンボルであり、当時の先端企業であられたタカキベーカリーの初代社長、高木俊介氏を招いて勉強会を開きました。千田町の広大近くの木造校舎でしたが、同氏は開口一番、私を黒色学生服の一番下の金ボタンを締めてないとして叱責されました。当時の学生は黒い学生服が主流でせめてものオシャレでしたが、軍人のご出身なのかと礼儀正しさには感服しました。大学卒業は、東京オリンピック開催の1964年、昭和39年です。小学校時代の同級生中谷雄英さんが柔道で金メダルを取り、大いに賑わったものです。私は小さな食品卸売業の一員でしたが、東京出張の際、偶然にも、まだ車寄せがあった芝パークホテルで先述の高木俊介氏とお会いし、同氏の訓戒を受けると同時に、其の後あたたかいご指導を頂きました。

 

昭和40年代後半、建物の建設ラッシュで、等価交換で建てればお金は少なくてもビル建築が実現するという風潮が広がりました。本業と並行してテナントビル経営を進めましたがテナントは入居しないという厳しい期間があり、頭を抱えることがあります。社会情勢も変わり、戦後復興が進む中、30歳代半ば何事も会社事業優先ということで、個人は奉仕に埋没し、会社からは賃金料収入が減り、母親は嘆き忙然としていました。しかしながら、少しずつテナントを増強して寝ている間でも、病気の時でも確実であることに恩恵を受けました。

 

まだまだ、たくさんの逸話がありますが、駄弁となりますので、この当たりでペンを置きます。ご精読ありがとうございます。

 

令和元年5月吉日

広島修道大学商学部 第一期生

中野伸彦